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朗読という表現に

気楽にブログを更新していこうと書いた前回から、かれこれ一ヶ月以上が経ったのである。まだまだ文字通り日記を書くようには書けないブログなのである。

個人的にはエポックメイキングな出来事が起きている2016年初頭の日々なのに、時期を逸して書けないことが積み重なっているようだ。なんとも勿体ない。

今回、朗読についてである。突然のことなので経緯を書き連ねたいところでもあるが、遡ること昨年の暮れの話になってしまうため、今更その部分をつらつらと書く気にもならないので、いずれまた書こうと考えて端折ることにしよう。

それよりも朗読という表現に出会い、感じたことを。このインパクトを忘れぬうちに書き残しておきたい。

とりあえず、経緯は別の機会に譲るとして、人前で朗読をすることになったのである。まず自分自身、朗読を聴く習慣がなかったので、自分が演るにあたって調べてみた。となると今の時代、検索するという行動に出たわけで、Youtubeに多くの朗読動画を見つけて視聴してみたのだ。そこには舞台、またオープンマイクのような場、ちょっとしたイベントでのライヴの朗読や、外国のポエトリー・リーディングと言われるもの(残念ながら英語力不足でよく分からず)、それ以外に役者さんがスタジオで撮った朗読などなど。

特に印象に残ったのは役者さんの朗読である。本当に上手な役者さんの場合は、一声で空気が変わると感じた。淡々とした語り口でありながら、その世界にひき込まれるものがあった。また詩人自らの朗読も実に興味深い。それこそ決して上手とはいえなくとも、独特の味わいを感じるものが多かった。そこはやはり、自身の言葉を自身のリズムで発するためであろうか。

詩の朗読以外にも、文学作品の朗読がネット上にはたくさん存在し、それを愉しむ人が少なからずいるのだということも、新しい発見であり驚きであった。そして私自身も、この年齢にして、新しい読書体験をしたのである。それは新しい体験である。他人の読んだ朗読を聴くだけでなく、自分自身が黙読に代わり音読をしてみると、どうだろう文章を読むスピード、リズムが変わり、文章の中から読み取る情報量もまた変わることを発見したのである。

俄然、耳から入る文学体験に興味津々の毎日を過ごしているのである。

 

「池袋千年画廊 「第三回スズキカヒロワンマンライブと街灯詩舎の歌や朗読の夜」

2016年2月27日 スズキカヒロさんのライヴにゲストで詩を朗読します。

お時間のある方はぜひお運びください。